先日、初めてダンスパフォーマンスの公演を観に行きました。
高松市内のそのグループは、大人から子どもまで所属していて、結構な人数を誇っていました。
かっこよかった。。。
人って・・・あんな動きやこんな動きまで!何でもできるんだなぁ・・・と思いました。
オープニングで、ダンサーの人影が響く音楽とともに照明の中に現れたその瞬間、私もダンサーでした。気持ちが。
全21の演目で、よく出ている人はやっぱり才能があるのだろうかとか、某アイドルグループでの争奪総選挙もあるように、「センター」にいる人はやっぱり動きが違うなぁとか、センターじゃなくてその隣のダンサーたちは悔しい思いをしたのだろうか、とかいろいろ分析しつつ観賞。
個人的に好きだったのは4人の子どもたちによる、映画「八日目の蝉」の主題歌の演目でした。
人を愛することの切なさを、それを経験したことがあるかどうかわからないぐらいの年齢のダンサーたちが体いっぱいに表現する、そのギャップが妙に心にぐっときて、涙が出ました。
この日を迎えるまで、彼らがどれほど自分自身や仲間とぶつかり、努力し練習を重ねてきたのか、そういうのがずっしりと伝わってきました。
私、なんにも頑張ってないなぁと思いました。
でもなんか明日からがんばろうと思えて、ダンスにはそういうチカラがあることも初めて知りました。
いろいろ大変なことはあるけど、皆を感動させ、楽しませたい、笑顔で帰ってもらいたい、そんな想いがつまったこの公演は、3月11日という日にふさわしい公演でした。
(山ガール)
たまたま通りがかった書店で手に取ったのが「看取りの医者」(著者:平野国美氏 小学館文庫)でした。
衝撃でした。医療に従事する人の多くが「一分でも一秒でも生かす」ことが勝負と考えているので末期においては、無理矢理に電気ショックや気管挿管などを行います。
しかし、大切な家族との会話は遮断され、死につつある人との交流は全く追いやられることが書かれていました。こういう看取りはしたくない。
10年前に、私の母も、がん手術をしたのですが「手術は成功」と説明を聞いた数日後に、いきなり院内感染となり、苦しむ母の気管から空気を送り込む、気管挿管が勧められ、それっきり話は出来なくなり・・・・・・とお定まりの手順でした。
「一分でも一秒でも生きて」と思う一方で、話しあうことなく1ヵ月近くが経過し亡くなりました。その頃の思いがよみがえりました。
看取りの有り様について、国民的に考えるべき時期となったと思いました。
早速、家族には「私への無意味な延命治療は絶対拒否する」と宣言しておきました。
(林哲也)